何気ない違和感から始まった
ある日、何の気なしに猫の爪とぎに顔を近づけた。
別に深い理由があったわけじゃない。普段からキャットフードの味を確かめるし、猫砂は手で掴んで感触を確かめる。
チェルシーが毎日触れるものは、自分でも確かめたいと思ってしまう。そういう性分なんだと思う。
嗅いだ瞬間、思わず顔をしかめた。
もう一度、今度はゆっくり鼻を近づける。やっぱり臭い。
薬品のような、籠ったような、なんとも言えない匂い。まさかダンボールがこんなにも臭いだなんて、考えたこともなかった。
足の匂いを嗅いで「え、なんでこんなに」とパニックになったことがある人は、きっとわかると思う。
予想もしていなかったところが臭いと、人は妙に動揺する。私はあの日、爪とぎに対してまさにその感情を抱いた。
猫の嗅覚を思ったとき
ふと、チェルシーがこの爪とぎに顔を近づけている場面を想像した。
猫の嗅覚は、人間の数万倍と言われている。私がこれだけ臭いと感じるものを、あの小さな鼻でどう感じているんだろう。
そう思った瞬間、胸のあたりがきゅっと縮んだ。
この爪とぎを、チェルシーにこのまま使わせるのは嫌だ。
感情が先に動いて、それから頭が追いかけてきた。なんでこんなに臭いんだろう。
なぞは深まるばかりだった。
爪とぎ業界の「構造的な問題」
調べ始めると、爪とぎ業界が抱えるひとつの構造的な課題が見えてきた。
シンプルな板状の爪とぎは、日本国内で生産できる。積層ダンボールといって、自動車部品の緩衝材や化粧品の輸送にも使われている技術で、全国どこでも作れる。
問題は「カタチのある爪とぎ」だった。
猫が研ぎやすいようにカーブがついていたり、顎をのせられるように緩やかに盛り上がっていたり。
ああいう立体的な形を作るには専用の機械が必要で、その機械が日本にはほぼ存在しない。
だから、海外の工場に発注することになる。つまり外国産のダンボール原紙で作られているということだ。
匂いの原因は「水」だった
調べていくと、匂いの原因は意外なところにあった。水だ。
ダンボールの製造には、驚くほど大量の水が使われている。紙1トンを作るのに約100トンの水が必要で、パルプの溶解、洗浄、脱墨、抄紙と、ほぼすべての工程で水が関わる。
再生ダンボールの場合は、古紙からインクや汚れを洗い流す工程が特に重要で、この洗浄に使う水の品質がそのまま製品の品質に直結する。
日本は、世界でも数少ない「水道水がそのまま飲める国」のひとつだ。水道法で51項目もの水質基準が定められていて、年間200種類以上の検査が行われている。
さらに日本は逆浸透(RO)膜の世界市場シェア約70%を占めていて、イオンレベルの不純物まで除去できる水処理技術を持っている。水の仕事をさせたら、世界で一番きれいにできる国なのだ。
一方で、世界のほとんどの国では水道水は飲めない。水に含まれる不純物が多ければ、当然、洗浄の精度は下がる。古紙に残ったインク、薬品、汚れが十分に取り除けないまま紙になる。
さらに、水中の有機物が多いとスライムと呼ばれる微生物の粘質物が発生しやすく、これも匂いの原因になる。
再生紙に使われる硫酸バンドなどの硫黄系薬剤が残留すれば、硫化水素が発生して、あの独特の臭みになる。
試しに外国産のダンボールとnyansの爪とぎを水につけてみたことがある。外国産のほうは、水にじわりと汚れが浮き上がってきて、匂いもひどかった。
普段の暮らしにあるダンボール――日本の、世界最高水準の水で作られたもの――とは、まったく別のものだった。
出会った「バージンパルプダンボール」
チェルシーを見ていると、ときどき電波を受信するような瞬間がある。
「ニオイのしないダンボール、使いたい」
猫の暮らしの課題は、私の課題。そう決めている。だから動くしかない。
全国のダンボール会社を訪問して回った。何社も何社も。
そうして出会ったのが「バージンパルプダンボール」という素材だった。
流通しているダンボールのほぼすべては再生ダンボールで、前世もダンボール、そのまた前世もダンボールという、生まれ変わってもずっとダンボールな一生を送っている。
でもバージンパルプダンボールの前世は、木や植物だ。
直前まで木だったダンボール。見た目は普通のダンボールなのに、かすかに自然の香りがする。ほのかに木の匂いがする。
顔を近づけても、嫌な気持ちにならない。チェルシーにも、安心して使ってもらえる素材だと思った。
一匹でも多くの猫のために
ただ、この素材で爪とぎを作るのは、簡単ではなかった。
バージンパルプダンボールは普通のダンボールより遥かに高い。
しかも頑丈すぎて、まとめて裁断することができない。
一枚ずつカットして、一枚一枚を手作業で貼り合わせていく。効率のことだけ考えたら、とてもじゃないけど選ばない方法だと思う。
(正直、最初は採算が取れるのか不安だった。でもチェルシーの顔を見たら、やるしかなかった。)
猫のために非効率を選ぶ。それが株式会社nyansの仕事だと思っている。
パートナー企業の皆さんが、同じ気持ちで一つずつ丁寧に作ってくれていることが、本当にありがたい。
一匹でも多くの猫に届けたい。その気持ちだけで、今日もこの爪とぎを作り続けている。
| 参考文献 |
- 紙パ技協誌編集委員会「製紙工場における水資源の効率的な管理」『紙パ技協誌』75(2), 131-136
- Bajpai, P.(2015)『Pulp and Paper Industry: Chemicals』Elsevier
- 栗田工業(2024)「製紙工場の水質データから品質トラブルを事前予測するシステム」『日本経済新聞』2024年9月報道
- 全国段ボール工業組合連合会「段ボールリサイクルの仕組み」(段ボール古紙回収率95%以上)
- 古紙再生促進センター「古紙の回収と利用 統計」(日本の古紙回収率84.9%、世界平均59.1%)
- JIS P 3902:2011「段ボール用ライナ」日本規格協会
- 厚生労働省「水質基準項目と基準値(51項目)」水道法に基づく水質基準
- Japan for Sustainability(2012)「Japan's Leading Water Treatment Membrane Technology」(日本のRO膜世界市場シェア約70%)
- Thompson, G., Swain, J., Kay, M. & Forster, C.F.(2001)「The treatment of pulp and paper mill effluent: a review」『Bioresource Technology』77(3), 275-286
- Kamali, M. & Khodaparast, Z.(2015)「Review on recent developments on pulp and paper mill wastewater treatment」『Ecotoxicology and Environmental Safety』114, 326-342
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